本研究グループの目指すところ

インターネットは急速に産業社会や市民生活に浸透し、社会基盤として重要な役割を担うようになってきた。しかし、同時に管理の複雑さや脆弱さなどその限界も見えつつある。そこで、コンピュータによる情報処理とネットワークによる情報流通からなる情報基盤を根幹から見直し、現状の限界を克服する新しいネットワークアーキテクチャの確立の必要性が国の内外を問わず認識され、10〜20年後の実現を目指してこれまでにない革新的なネットワークアーキテクチャの構築を目指す機運が盛り上がりつつある。このような試みを成功させるためには、これまでに発展してきた既成の情報ネットワーク学分野に閉じることなく、先端科学技術の融合、すなわち、先端的な科学の知見に基づいて情報ネットワークの技術開発を目指す、新たな研究領域としての情報ネットワークの理論的・技術的開拓が必須である。

欧米諸国においても、従来のネットワーク技術とは異なる原理に基づくネットワークアーキテクチャの探索研究は、米国NSF(FIA、GENIプロジェクト)、欧州EC(FP7プロジェクト)などを中心に活発化している。その中で、独自の手法を用いてネットワーク技術の構成原理から検討し、世界に先駆けて新世代ネットワークアーキテクチャの研究開発を実施し、さらに標準化活動をリードすることは、世界的な国際競争力を確保する上でも極めて重要である。我が国においても、2007年10月に(独)情報通信研究機構に新世代ネットワーク研究開発戦略本部が新設され、また、11月には新世代ネットワーク推進フォーラムが発足した。また、2010年6月には、(独)情報通信研究機構において新世代ネットワーク研究プロジェクトも発足している。これらの動きが示すように、新しい時代のネットワークの研究開発の重要性はますます増している。

1.1 将来のネットワークアーキテクチャの方向性

今後のネットワークアーキテクチャに必要とされるキーワードは、以下の3つであると考えている。

  1. 拡張性(スケーラビリティ):インターネット利用人口の増加は言うまでもなく、センサー機器の増大、情報家電の普及など、インターネットに接続される情報機器端末の数は今後ますます増大する。また、それらの機器は当然、モバイル環境において利用されることが前提になる。その結果、ネットワーク資源の管理方法も当然変化せざるをえず、また、ルータ数やエンドホスト数、ユーザ数、さらにはセンサーなどの端末数の増大に対応可能としておく必要がある。
  2. 多様性:ネットワーク技術はますます多様化しています。無線LANや第4世代 技術などによる無線回線、DSLやFTTH技術などのアクセス回線、ギガビットイーサなどのLAN、光通信技術によるバックボーン回線など、さまざまな高速化技術が開発されつつある。その結果、過去たびたび提唱がなされてきたような単一のネットワークアーキテクチャによる統合ネットワークはもはや存在しえず、その結果、安定した通信回線をエンド間で提供するような通信形態の実現もあり得ないということになる。また、情報機器・デバイスの多様性からネットワークに流入するトラヒックの特性はますます多様化する。
  3. 移動性:モバイル環境においては、利用者自身の移動を考慮しなければならない。そのためには、柔軟なネットワーク制御が必要になる。さらに、通信相手となる他の利用者にとっては、ネットワーク資源そのものの移動や生成・消滅までもが頻繁に発生することを意味することになる。また、P2Pネットワークのように情報資源提供者がサーバではなく、ユーザである場合、コンピュータをネットワークから容易に切り離すことも考えられる。さらにモバイル環境では、ルータ自体が移動する可能性がでてくる。

以上3つのキーワードを前提とすると、「すべてのユーザの通信要求を満たす」単一のネットワークアーキテクチャが存在しえないことは明らかである。それよりも、エンドホストの適応性(adaptability)向上を根幹とし、ネットワークはそのような適応性をサポートするための機構を提供することを基本原理としていく必要がある。そのためには、エンドホストはネットワーク状態を自律的に実時間で知る必要があり、ネットワーク計測技術を根幹したエンドホストの制御が必須になる。また、トラヒック変動や故障だけでなく、ネットワーク資源の変動やエンド端末の移動などあらゆる環境変動に対処可能にするためには、ネットワークはエンドホストの適応性を前提とした自己組織型制御が重要になる。このような研究の方向性は、バックボーンのインフラストラクチャとなるフォトニックネットワークにおいても例外ではない。

インターネットはもともと分散指向といわれているが、実際にはそうではない。例えば、IP経路制御は分散志向であるとよく説明されているが、決してそうではない。現状のIP経路制御は、完全な分散制御ではなく、分散集中型あるいは協調型分散型と呼ぶのが正確である。例えばIP経路制御のひとつであるOSPFにおいては、すべてのルータ(エンティティ)が独自の判断によってパケットフォワーディングをするという意味では分散型であるが、すべてのルータが同一の情報を集めて、同一のネットワークトポロジーを持つことを前提に同じ動作をすることが前提である(集中分散型)。また、他ルータも同じ振舞いをすると期待して動作する(協調型分散)。完全な分散制御でないことが、ネットワークの耐故障性の弱さにつながっている。このような問題を解決するためには、上述の多様性、拡張性、移動性を前提に、分散処理指向をさらに推し進め、しかし、それによって損なわれる資源利用の効率性については、エンドホストの現状のネットワークの状態に対する適応性によって補償していく必要がある。また、そもそも、効率性を追求することは、これまでの情報ネットワークにおいては至上課題であったが、技術の進展によって性能はすぐに向上する。効率性よりも、耐故障性や適応性、スケーラビリティなどを向上できるネットワークアーキテクチャこそ今求められているものである。その結果、今後も開発されていくであろう多様な通信技術に対応することが可能になり、ユーザの多様な要求に対するサービスも提供できるようになる。

そのためには、個々のエンティティが自律分散的に動作し、全体では意図する制御が実現されるようなネットワーク、すなわち、自己組織型ネットワークを構築していく必要がある。また、今後もネットワークの階層構造は機能分割、機能分担という意味で重要な概念であり続けると考えられるが、その際にも、縦方向のエンティティである階層構造をより柔構造にしておく必要があろう。すなわち、従来のように階層を完全に分割するのでなく、上位層、下位層の状態に適応可能な制御構造を有するネットワーク、すなわち、自己創発型(エマージェント)ネットワークを構築していく必要がある。このような考え方は、複雑適応系の考え方そのものである。現状のインターネットも、それが人為的に作られたものにも関わらず、人が設計可能な範囲、制御範囲を超えつつある。複雑適応系としてインターネットを捉えることにより、大規模システム全体の振る舞いや設計手法、非線形システムとしての安定性、故障の連鎖反応の影響、ロバスト性等を解明し、最適性や最適解への収束速度を明らかにする等、その理論的役割に期待できるところは大きい。それらの過程を経て、人為的に設計・構築されたネットワークを結果として制御可能なものにしていく必要がある。

特に、エンドホストの自律性がますます要求されるようになると、それを前提として、ネットワーク全体の調和的な秩序が必要となる。これは適応複雑系においてまさしく議論されているところであり、それらの知見を活かすことの可能性が見えてくる。実際、これまでのインターネットにおいても、適応性を有する、また、頑強性や安定性を確保するシステム構築を行ってきた結果として、複雑適応系としての特徴が一部見られる。自己組織化制御はまさしくその特性を有するものであり、現状のインターネットでも採用されている考え方を推し進めると自己組織化ネットワーク、さらには、複雑適応系としてのネットワークに行き着く可能性が十分にある。その傍証が、P2Pやルータの接続関係において観測されているべき則である。その理由として、自己組織化、ダイナミックな成長、多くのエンティティが起こす相互作用などが原因として挙げられる。これらは今後のネットワークの目指すべき方向とまさに合致しており、結果としてべき則が見出される可能性も十分にある。現在、べき則に関する科学的研究は、統計物理学、応用数学、社会学、経済学、生物学などで活発に行われており、これら異分野の成果を情報ネットワーク技術の進展に応用していくために、以下のように科学と技術の融合が重要である。

1.2 科学と技術の融合に基づく新しい情報ネットワーク科学の創出

われわれが推進しているネットワークアーキテクチャに関する研究は、以下の反省に基づいたものである。インターネットも含めてこれまでのネットワーク設計において、理論的な研究成果が技術の実現に活用された例は決して少なくない。特に従来は、待ち行列理論やトラヒック理論、ゲーム理論、最適化理論などの応用数学と密接に関連して研究開発が進められてきた。しかし、これまでの理論的研究は個別技術を対象としたものが多い。アーキテクチャは、本来、技術的手法と科学的手法の融合によって生まれるべきものである。しかし、現在、科学と技術の乖離があらゆるところで問題になっており、これは情報ネットワークの研究開発においても例外ではない。「科学的手法」は、すでに存在しているシステムに内在する普遍的な法則を探求するために、対象をモデル化し、数学的議論によって対象の性質を明らかにするものであり、一方、「技術」は新しい機能を実現する具体的な方法を案出し、モノを作り、利用するためのものである。本来、技術は、科学的手法から導いた性質をもとに新しい機能を実現するためにモデルを考え、実システムに適用することが重要であるが、従来はこの視点に欠けていたのが実情である。すなわち、科学的手法によって得られた性質に基づき、それを技術として組み上げることが、アーキテクチャ構築の本質であるにも関わらず、従来はこのような循環がうまく機能していなかった。このような乖離が生じた理由は、例えば、情報ネットワーク分野においては、これまで用いられてきた理論が応用数学の借り物であり、情報ネットワークのために生まれた科学ではなかったことが大きい。また、以下のような現実的な問題もある。これまでの理論的手法は、現状および近未来の技術水準に基づくサービス品質の最適化を主眼としてきた。最適化の問題を容易に扱えるために、ネットワークシステム全体の最適化ではなく、ある階層やあるプロトコルを対象として最適化がなされてきた。情報ネットワークは階層化構造がとられているため、下位層は安定した構造を持ち、上位層からの要求を入力とすれば、このような仮定は十分に成立しうる。事実、インターネットにおいても、すでに、さまざまな小さな機能が追加されてきており、部分的な機能を最適化することは現実にも可能であった。また、特定の制御方式、プロトコルを対象とした最適化を行えば、階層すべてに渡ってこの作業を繰り返せば、最終的に全体のアーキテクチャの評価が可能になるという論理も成立しうる。しかし、もはやこのような仮定は成立しない。今後、適応的な情報ネットワークを実現するには、階層間の相互作用がよりダイナミックになるためである。

新しいネットワーク科学を創出することは容易ではないが、上述したべき則、自己組織化、自己成長、複雑適応系、創発性、非平衡系など、そのためのキーワードはすでにいくつか出現しつつある。また、われわれが推進している生物の様態、特に自己組織化に学ぶネットワーク制御に関する研究開発の重要性は、以下の点にある。

  1. 生物の自己組織化に学ぶことによって、適応性、耐故障性に優れたネットワークシステムの実現可能性があること
  2. 生物システムにおいても、べき則、複雑適応系、創発性などの議論は盛んになされており、また、単に生物学だけでなく、物理学、応用数学、社会学などさまざまな分野における同様の取り組みによって、幅広い知識の融合が図れること
  3. 自然界の生物システムを変更することは容易ではないが、情報ネットワークは制御可能なシステムであり、巨大な実験場として他分野に供することが可能である。また、情報ネットワーク分野で得られた知見を他分野に示すことによって、互恵的な真の融合モデルを構築することも可能であること

今後は、これらの視点に基づき、新しいネットワークアーキテクチャの構築に向けた研究開発を進めていく予定である。

[参考文献]